今天(2023年7月21日)遠赴(?)二條車站採訪逸馨,那裡的Komeda好好坐,又上了一課,她真是問不倒。馬祖食農文化在三代人之間急速壓縮變遷,根本可以直接投稿故事。不過是要翻譯成日文交報告用的,所以文字上比較笨拙啦,嘻嘻。
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我的母親與祖父母來自一個叫馬祖的島群。島群雖然受台灣政府統治,但位置非常靠近中國福建沿海,移民主要來自福州這個城市,馬祖島的通行語言也是福州語。1949年,國民黨政府在中國內戰中敗北,遷移到台灣,此時雖然已失去對大陸的掌控權,但仍然掌握浙江、福建沿海的諸多島嶼,直到1950年代才在共產黨的攻擊或國民黨主動放棄下,逐漸形成以「台灣、澎湖、金門、馬祖」的統治範圍固定成今天國際所認知的「台灣」。
國民黨從1950年代起在馬祖島群開始實施軍事統治,並且往島上派駐比居民多好幾倍人口的軍人。不過軍政府的軍事統治也為馬祖帶來現代化,例如設置國民學校,提供普及的教育,也帶來軍人消費的經濟發展。因此馬祖這個小島上的現代化和軍事化是同步出現的,因此隨著時代向前,馬祖島上的料理也摻雜了軍事統治帶入的特色。
首先,在1949年以前,馬祖位居海上,除了因為季節而短暫來到島上捕魚或交易漁獲的漁民、魚商,相當長的時間裡,馬祖並沒有世代定居的居民,現代國家的統治力量也非常薄弱。此時住在馬祖島上的人的主食是自己耕種的地瓜,因為馬祖降雨不多,大部分土地乾旱,不適合種植稻米。但是馬祖四面環海,相當潮溼,但地瓜一年收成一次,數量太大卻吃不完會腐敗,因此馬祖居民有兩種保存方式:第一種是將地瓜刨成長條狀,曬乾,使水分蒸發後,放在櫥櫃中,要吃時再下水煮熟。
第二種方法是切開地瓜後以水沖洗,即可得到含有大量澱粉的糊狀物,但量不多,相當珍貴,因此主要是節慶時煮成甜點。不過不太確定此處的糖如何取得,推測可能是來自福州的小販定期來到馬祖島上販賣生活用品,並且收購馬祖島上小規模種植、熬製的罌粟膏。罌粟膏回到福州再進一步精製,價格相當高。
馬祖居民跟著季節種植蔬菜,冬天種大白菜、白蘿蔔,春天播種地瓜,夏天收成地瓜。5月底種黃瓜、冬瓜(可以等到9月收,可保存至冬季),秋天種青江菜等葉菜類,可以避開春、夏的毛毛蟲旺盛季節。
由於四面環海,馬祖人也會到海岸採集螺貝「加菜」。下午到傍晚時,可以到潮間帶「討潮」,挖取附著在礁石背面的螺貝類,螺貝類在沒有冰箱等冷藏條件的年代,皆以醃製保存。海鮮則分近海與遠海魚種,近海魚種(如石狗公)主要來自礁岩垂釣,因為價格不高,可以自己食用;遠海魚種則以販賣為主。
漁業季節是冬季與春季,冬天有鯧魚、鱸魚,春天則有黃魚。蝦皮也是重要漁獲,即小蝦,需要煮熟後曝曬,水分蒸發後只剩小蝦殼,所以稱為蝦皮。蝦皮不是食物,而是重要的調味品。在國民黨登陸以前的「前戰地」時代,馬祖人吃蝦皮,不過更多是販賣到福州等福建、廣東的沿海城市。白力魚則加鹽醃製成「梅香魚」,可遠賣到香港。
不過軍人登陸,國民黨政府展開軍事統治以後,隨即管制海洋,因此遠海漁業也失去「國際」市場。
醃製是冰箱等冷藏設備尚未出現、普及時的食物保存方式。魚類、海鮮容易腐壞,所以自古以來福州地區就以粗鹽醃製食物,以求延長食用時間。馬祖居民會將魚抹上一層鹽,放入福州購來的陶甕中(馬祖島沒有製陶廠)。大約兩到三個月醃製即完成,醃好的魚會傳來發酵的香味。醃製的關鍵在鹽份,需要掌握剛剛好的鹽量,鹽太少會導致食物腐敗,鹽太多則會導致發酵不易。
現代的漁船上都配有冷凍設備,但以前並沒有,在船上捕獲魚貨後必須立即醃製,因此過去的漁民大多也掌握醃製技術。
夏季馬祖盛產鯷魚等小型魚類,馬祖人會將它醃製一個月以上,當成調味料使用,例如過去能夠拿來配地瓜籤、米飯,或者配湯飲用,也可以拿來蒸豆腐;現代則可以蒸五花肉,增添鹹鮮滋味。
到了1949年,尤其1950年代以後逐漸鞏固的戰地時代,下海捕魚受到限制。主食開始出現軍方配給的米,但是因為米來自台灣,經過船程、倉庫保存,所以取得時往往已發霉,味道不新鮮,也可能有容易致癌的黃麴毒素──這當然是現代才知道的事實。當時因為是免費配給的米飯,馬祖居民仍會領取,而且白米比地瓜籤容易保存,所以米飯在主食的比例逐漸上升,地瓜籤則減少。
漁業方面,因為台灣得到來自美國的經濟與物資援助(1951 – 1965),因此配備冰櫃的收購船開始從台灣駛來。但是因為軍方的海洋管制,導致漁民常常無法順利捕魚,例如潮汐發生在晚上,但軍政府不允許漁民在日落後出海。再者,因為台灣距離遠、運輸時間長,漁獲雖有冷藏但並不新鮮,因此這樣的商業模式讓馬祖漁貨在台灣的價格不好,於是一部分漁貨「出口轉內銷」,供應島上的軍人、部隊的伙食,另一部分則由漁民向政府貸款成立蝦油廠、魚露廠,引入現代化的生產設備,將不易保存的魚貨,加工成可外銷出口的產品。
大約在1970年代中期,馬祖島上開始有電力、自來水和桶裝瓦斯,否則過去馬祖居民需要到海邊撿拾漂流木來生火煮食。電冰箱漸漸普及,因此醃製品比例減少。因為經濟發展,肉品和雞蛋也成為蛋白質的來源。軍政府也在馬祖島上設有養雞場,供應新鮮雞蛋。
台灣製造而輸送來馬祖供應軍人的「軍用罐頭」也進入馬祖民間,誕生「豬肉罐頭炒麵」。台灣軍人和馬祖居民的交流增加,也帶來台灣式的飲食,例如馬祖過去沒有的炒滷味。西式的飲食習慣也因此而來,麵包製作傳入馬祖島,島上開始出現麵包店。
因此馬祖現代的飲食,除了福州原鄉的風味,也有台灣式、西式、(假)日式和東南亞料理。
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台湾からの交換留学生Liu Yiです。私の母と祖父母は、馬祖諸島出身である。馬祖は台湾政府の統治下にあるが、中国福建沿岸に非常に近い位置にあり、移民は主に福州市から来ている。馬祖島では福州語が共通語として話されている。1949年、中国内戦で国民党政府が敗北し、台湾に逃げた。この時点で大陸の支配権を失ったが、浙江省と福建省沿岸の多くの島々を引き続き統治していた。共産党の攻撃や国民党による主動的な放棄により、1950年代までに「台湾、澎湖、金門、馬祖」が今日の国際的に認知される「台湾」の統治範囲として確立された。
国民党は1950年代から馬祖諸島で軍事統治を開始し、島には住民の数倍の兵士が駐留した。しかし、軍政府の軍事統治により、馬祖は現代化ももたらされた。例えば、国民学校の設置や教育の普及、軍人の消費による経済発展などがある。したがって、馬祖島の現代化と軍事化は同時に進行し、時代とともに軍事統治がもたらした特色が島の料理にも混ざっていった。
まず、1949年以前、馬祖は海上に位置していたため、季節によって一時的に漁師や魚商が島を訪れ、漁獲物を交易していたが、長い間、世代にわたって定住している住民はいなかった。当時の住民の主食は自家栽培のサツマイモであった。馬祖は雨が少なく、土地の大部分が乾燥しており、稲作には適していなかった。しかし、馬祖は四方を海に囲まれており、非常に湿気があった。サツマイモは一年に一度収穫されるため、大量に収穫されても食用されなかったら腐敗してしまうことがあった。そのため、馬祖の住民は2つの保存方法を使っていった。1つ目はサツマイモを長細い棒状に切って乾燥させ、水分が蒸発した後、戸棚に保管しておき、食べる時に水で煮て食べる方法である。
2つ目の方法は、地瓜を切り開いて水で洗うと、多量の澱粉を含むペースト状の物質が得られるが、量は少なく、非常に貴重であり、主に祝祭の時に甘いデザートとして調理された。ただし、ここで砂糖がどのようにして手に入るのかははっきりしていない。おそらく福州から定期的に来島して生活用品を販売する行商人がいたと推測される。
海に囲まれていたため、馬祖の人々は貝類を採集することもあった。午後から夕方にかけて、干潮時に潮間帯に出かけ、岩の裏に付着している貝類を掘り取った。貝類は冷蔵庫などの冷却設備がない時代には腐敗を防ぐために塩漬けにして保存された。
漁業の季節は冬と春である。冬にはマナガツオ(鯧魚)やスズキ(鱸魚)、春にはフウセイ(黃魚)が獲れる。また、重要な漁獲物に小エビの「蝦皮(エビの皮)」がある。小エビは煮熟して乾燥させ、水分が蒸発した後にエビの殻だけが残るため、「蝦皮」と呼ばれている。蝦皮は食べ物ではなく、重要な調味料である。国民党が上陸する前の「前戦地」時代には、馬祖の人々は蝦皮を食べていたが、主に福州や福建、広東などの沿海都市に販売されていた。白力魚は塩漬けにして「梅香魚」として遠くの香港に輸出された。
しかし、軍人が上陸し、国民党政府が軍事統治を開始すると、すぐに海洋が制御され、遠洋漁業は「国際」市場を失った。
魚や海産物は腐敗しやすいため、古くから福州地域では粗塩を使って漬け物を作り、食品の食用期間を延ばしてきた。馬祖の住民は魚に塩を塗り、福州から購入した土甕に入れて漬け込む(馬祖には陶器工房がなかったため)。約2〜3ヶ月の漬け込みが完了し、漬けた魚から発酵の香りが広がる。漬ける際の鍵は塩の量で、適切な塩分を把握する必要がある。塩が少ないと食品が腐敗し、塩が多いと発酵がうまく行かない。
漁業においては、台湾がアメリカからの経済的・物資的支援(1951年から1965年)を受けたため、冷凍庫を備えた船が台湾からやって来るようになった。しかし、軍の海洋制御のため、漁民は順調に漁をすることができないことがよくあった。たとえば、軍政府は日没後の船出を許可しなかった。また、台湾までの距離が遠く、輸送時間が長いため、漁獲は冷凍されていても新鮮でなかったため、馬祖の漁貨は台湾での価格が良くなく、一部は「内銷への転換」され、島の軍人や部隊の食料として供給された。もう一部は漁民が政府から借り入れしてエビオイル工場や魚露工場を設立し、現代的な生産設備を導入して保存が難しい魚貨を加工して輸出品にした。
約1970年代中頃、馬祖島は電力、自来水、そしてLPガスが島に導入され始めた。それまでは、馬祖の住民は海岸に行って漂流木を拾い、火をおこして料理をしていた。電気冷蔵庫の普及により、漬け物の割合は減少していった。経済の発展に伴い、肉と卵もタンパク源として普及した。軍政府は馬祖島に鶏の飼育場を設置し、新鮮な卵を供給した。
台湾で製造され、馬祖に供給される軍用の缶詰も馬祖の民間に導入され、「豚肉缶詰炒麺」が誕生した。台湾軍人と馬祖の住民との交流が増え、台湾式の飲食文化も持ち込まれ、例えば馬祖では以前になかった「炒滷味」などが広まった。西洋式の飲食習慣も広がり、パンの製作が馬祖島に伝えられ、島内にパン屋も登場した。
その結果、馬祖の現代の飲食文化は、福州の伝統的な味に加えて、台湾式、西洋式、(偽の)日本式、東南アジアの料理などが取り入れられるようになった。