2024年3月30日 星期六

昭和の“交通戦争”を彷彿 台湾の弱肉強食な交通事情


 半世紀遅れている台湾の交通事情

2023年に京都大学で交換留学していた際、「台湾の交通問題」をプレゼンテーションと期末レポートのテーマとして取り上げました。しかし、日本人の先生は、私がこのテーマに非常に強い関心を持ち、憤っている理由を理解するのが難しいようでした。

台湾の道路状況の深刻さは、現代の日本からは想像しにくいかもしれません。そのため、まずは簡単な比較からお伝えします。

台湾の5倍以上の人口を擁する日本ですが、2020年を境に、日本の交通事故死者数は台湾を下回りました。その年の死者数(事故後30日以内の死者数)は、日本は2839人、台湾は2972人で、人口比で見れば、日本は台湾の6分の1。仮に、台湾における交通事故の死亡率を日本の人口に当てはめれば、台湾では1万5千人以上もの犠牲が出ていることになります。

これは、交通事故の死者数が日清戦争の戦死者を上回る勢いで増加し、「交通戦争」が叫ばれた高度成長期の日本に匹敵する数字です。台湾のメディアや交通改革の提唱者たちも、台湾の状況を「交通戦争」という言葉でよく表現します。言い換えれば、それは台湾の交通安全対策が日本より50年以上も遅れている証左であるのです。


自動車やバイクで歩道や路肩が占領され、歩行者が車道を歩かざるを得ない状態が日常茶飯事となっている(筆者提供)


 歩道でバイクに道を譲る現実

台湾の交通事情が深刻な理由の1つは、基本的な交通インフラである「歩道」が、都市部を除いてほとんど存在しないことです。

かの司馬遼太郎氏は『街道をゆく 台湾紀行』の中で、「台湾は車優先です」という台湾の友人、老台北(蔡焜燦)の言葉を紹介しましたが、それから約30年後、台湾ルポライターの田中美帆氏がこのエピソードを引用しながら、いまだ改善されない台湾の深刻な交通事情を批判。台湾最大のネット掲示板で議論が起き、複数の台湾メディアでも報じられました。

また、2022年末にはアメリカのCNNが「歩行者の地獄」として台湾の道路状況を取り上げ、台湾の都市には共通の問題ーー歩道の欠如と一貫した歩行動線の不足があると指摘しています。

古い市街地では、民家の1階部分が「騎楼」(亭仔脚)と呼ばれる通行スペースになっていることは、多くの方がご存知でしょう。

日本統治時代から存在し、当時の植民地政府は騎楼に物品の堆積を禁止する通達を繰り返し出していました。しかし、所有権は個人に、使用権は公にあるという法的な曖昧さから、現在でも住民は通行スペースに私物を置き、地方政府(地方自治体)は積極的に取り締まらないどころか、騎楼を自動車やバイクの駐車スペースとして認めている地方政府が少なくありません。

そのため、バイクが我が物顔で走行し、私もよくバイクに道を譲るのを強いられます。段差や階段も多く、ベビーカーや車椅子利用者にとっても大きな問題です。


民家の1階部分が通行スペースになっている「騎楼」。写真のようにモノであふれたスペースにバイクが侵入してくるため、歩行者は気を抜けない(筆者提供)


 マイカー社会の暗黙の了解

交通事情が深刻なもう1つの理由は、公共交通機関の不足にあります。台湾最大の都市圏である台北都市圏や台中、高雄などを除いて、台湾には信頼できる公共交通機関がほとんどありません。鉄道が行き届かない地方が多く、鉄道の代替交通であるはずのバスも「1時間に1本」という地域が珍しくありません。

これらはすべて、台湾が自動車やバイクに過度に依存する「マイカー社会」であることの弊害といえるでしょう。

交通権思想の先駆者である湯川利和氏は、1968年の『マイカー亡国論』でアメリカ社会を観察し、マイカー社会が形成されれば公共交通はすぐに崩壊し、「公共交通のサービス品質が低下し、運行頻度が少なくなることで、人々がより一層マイカーに依存する」という悪循環が生じることを予見しました。

マイカーが増加すると、道路設計や法律などの社会システムが、車両とドライバーに有利に傾くようになります。前述の路肩や騎楼が歩行者のためではなく、車両とドライバーのためのものになっていることからも明らかです。

台湾の若者は「騎楼がある建物の1階部分を買えば駐車場が付いてくる」と冗談交じりに話すことがあります。これは、台湾に長年にわたって存在する暗黙の了解です。

しかも、その暗黙の了解を破ろうとすれば「民意」、すなわち選挙時の票を失いかねません。現在、自動車とバイクをあわせたマイカーの所有率は98.8%(うち自動車は36.7%)にも上るため、議員や政府は大胆な交通改革を行うことが難しいのです。

このような現状を、台湾のある交通改革提唱者は「弱肉強食のジャングル」と称しました。歩行者もドライバーもすべての道路利用者が争い合い、重く、大きく、車輪が多い者が勝ち、弱い者(歩行者)は飲み込まれる。自ら強者を避けなければ自己責任とされ、非業の死を遂げることもあるのです。


(前編2024年2月27日發布於The News Lens Japan


-

 交通問題への怒りや不満が噴き出しデモ拡大

歩行者は強者(自動車やバイク)を避けなければ自己責任とされ、非業の死を遂げることもある台湾の深刻な交通事情。法律は、たとえ信号がなくても、車は横断歩道を通る際に速度を落とし、歩行者に道を譲るべきと定めているものの、実際は運転免許の試験で特に注意されることもなく、警察の取り締まりもないのが実情で、衝撃的な交通事故が後を絶ちません。

昨年2023年5月には、台南市北区で母親と3歳の娘が、妊婦が運転する車にひかれ、母親が重症を負い、娘が亡くなりました。この事件は台湾社会に大きな悲しみと怒りをもたらし、それまで人々の間にたまっていた交通問題に対する怒りや不満が一気に噴き出しました。

事件後まもなく「行人安全大富翁(歩行者安全のモノポリー)」と名付けられたフラッシュモブ形式のデモが台湾各地ーー台北、新北、桃園、新竹、台中、台南、高雄などで、少なくとも数十人、多いところでは数百人が参加して行われました。

デモの参加者は、女の子が亡くなってから7日目であり「母の日」でもあった5月12日に、黒い服を着て白い包帯を腕に巻き、カーネーションと「馬路上的冤魂,我們沒有遺忘(道路上の怨霊、我々は忘れていない)」という標語を手に持って、「還路於民,終結行人地獄!(道路を市民に返せ、歩行者地獄に終止符を!)」と叫びました。

2023年8月には、台湾で初めて「行人権利(歩行者の権利)」を主題とするデモ「還路於民(道路を市民に返せ/Stop Killing Pedestrians)」が台北市の総統府前で行われました。

政府への主な要求は次の5つです。

 ①歩行者インフラの改善

 ②ドライバーの教育改革

 ③法執行による歩行者権利の強化

 ④交通法制の再構築

 ⑤台湾「ビジョン・ゼロ」(2040年までに歩行者の交通事故死亡者数をゼロにする提案)の実現

王国材交通部長(交通相)はステージ上で参加者に向けて謝罪。今年1月の総統選挙に立候補を予定していた当時の候補者4人、すなわち台湾の主要政党のリーダーたちも現場を訪れ、約束書に署名しました。


デモ当日は大雨だったにもかかわらず多くの市民が参加。障害を持つ人々、高齢者、子どもたちが交通事故の犠牲者とならないように声を上げた=2023年8月20日、台北市

市内をデモ行進する子どもたち=2023年8月20日、台北市


車椅子の参加者も=2023年8月20日、台北市

デモ後には交通安全と歩行者の権利に関心を持つ人々による「還路於民行人路權促進會(歩行者権利推進協会)」が設立され、交通問題への市民の意識をより長期的に促進し、政府の政策に影響を与える活動が始まりました。

幸運にも私も一員になることができた当協会の会員には、さまざまな専門分野を持った人や留学経験がある人が集まり、多くの「交通災害」の遺族も含まれています。

私たちは、交通事故を「人為的に引き起こされた災害」とみなし、簡単すぎる運転免許試験や非科学的な道路設計、行政機関の怠慢な態度などを問題として、これ以上の悲劇を生まないことを目的に活動しています。


総統府前、東門を背にして記念撮影するデモ参加者たち=2023年8月20日、台北市

 中学生が描いた〝歩行者の絵〟がネットで炎上

市民の声を受けて、2023年12月、台湾政府は日本の「交通安全対策基本法」を参考に「道路交通安全基本法」を立法院(国会)で可決し、2024年1月から施行しました。私や協会員は「行人安全設施条例」の公聴会に参加し、法案に対する意見を提出しました。こうした一連のやり取りからは、交通改革に対する政府の積極的な姿勢を感じています。

ただし、車優位の台湾社会において大きな変化はまだ実感できません。2023年12月には、桃園市の中学生が描いた「帝王条款」という題名の絵画が、全国的な美術展で特優賞を受賞し、ネット上には賛否両論があふれました。

作品は、バスやトラック、自家用車やバイクの運転手がクラクションを鳴らしたり大声を上げているにもかかわらず、それを無視した歩行者=皇帝が、亀を引きながら傲慢な態度でゆっくりと横断歩道を渡っているところを描いたものです。

この絵に対してネット上では「歩行者の当然の権利を風刺するのは学校教育に問題があるのでは」という非難が上がった一方、「ゆっくり歩き、車両に無頓着な歩行者の傲慢さを表している」と評する声も多く上がりました。

台湾のメディアは、横断歩道上の歩行者に絶対的な優先権があることを揶揄し、歩行者保護に関連する法律を「帝王条款」と、しばしば皮肉ります。

私はこの騒動を見て、交通弱者への配慮がなく、人も車も平等であり、互いに尊重するべきだと考えている多くの台湾人の深刻な症状の現れと感じました。


 メディアも結託し、市民の通報制度を機能不全に

政府の態度もダブルスタンダードと言わざるを得ません。「道路交通安全基本法」や「行人安全設施条例」の立法に取り組む一方で、歩車分離式信号機の導入や交差点のスクランブル化、道路設計や規則の変更といった安全対策はなされず、交通違反の点数制の実施を一時的に延期。自動車のフロントガラスの透過率規定の実施も延期しているため、街中を走る多くの車のガラスは真っ黒です。

また、市民が車やバイクの運転手の違法行為を撮影し、公的機関のウェブサイトに写真や動画をアップロードすることで、警察がその違法性を判断する「交通検挙制度」の適用範囲も制限されました。

通報者が交通違反の当事者から暴力のリスクに晒されることもあるこの制度は、たとえ勇気をもって通報したとしても「証拠不十分」とされるケースが多々あります。

加えて、台湾のメディアも違反を摘発する市民を「法的手段を使って社会に復讐している」としばしば攻撃するため、不十分ながらも存在していた通報制度が機能不全に陥っているのが現状です。

責任ある政府ならば、いわゆる「交通3E」(運転免許の厳格な管理、道路の科学的な設計、違反行為の厳格な取り締まり)を実施し、規範を守るドライバーを増やし、違反者を減らすものですが、台湾ではその逆が平然と行われているのです。


 日本は学ぶべき模範、台湾はどう交通戦争に勝利できるか

今回、交通権学会の上岡直見先生からこの原稿を書く機会をいただきましたが、これまで書いてきたように、残念ながら台湾社会はまだ「交通権」の意識から遠く離れていると感じます。最も基本的な「人身安全」(死傷を免れる消極的権利)の保障すらできておらず、交通は「自由で快適な移動を享受する積極的権利」として捉えられ、歩行者が「交通権」を求めることはさらに遠い話です。

2023年夏に留学先の京都大学を離れる前、京都大学図書館の地下室で1986年に交通権学会が出版した『交通権』という書籍を見つけ、非常に感銘を受けました。

2024年の台湾がいまだマイカー社会に苦しんでいる一方で、日本は40年近くも前に「交通は基本的権利である」という概念を発展させていました。さらに遡ること1968年には、湯川利和先生が「マイカー社会は地獄への道」と警鐘を鳴らしていました。

留学中、日本の専門家が「日本はクルマ社会だ」と批判するのを聞き、驚いたことがあります。台湾人の私からみると、歩行者環境と公共交通機関が比較的整っている日本は学ぶべき模範です。日本は「交通戦争」と呼ばれた時代から時間をかけて、より人間的で幸福な生活環境を実現したと感じます。

それでもなお専門家が「不十分」だと現状を批判していることこそが、日本の交通環境を持続的に前進させているのでしょう。マイカー地獄からどう脱出するのか、交通戦争にどう勝利するのかーー台湾社会も自らの立ち位置を認識し、より安全で、自由で、幸福な国になることを願っています。


(前編2024年3月21日發布於The News Lens Japan

2024年3月27日 星期三

新綠的山丘

《三體》他們從海岸來往倫敦,竟然是搭列車!果然不是發生在美國的故事。

然後他們搭飛機落地準備去聯合國總部,馬上就開車了,果然是美國。

現在超級注意劇和電影裡的交通工具,壞掉了。

美國和台灣都很適合被車撞飛而急死。火花羅去美國騎機車時,有拍一集住家和幹道中間幾乎沒有緩衝帶,小孩一溜出門就很容易被撞。

雖然劇裡被車撞死的場景是在英國,肇事者是自動駕駛車,因為被三體人駭入了。

這個呢,日本人上岡直見也在2022年的新著中提出質疑:

新能源(電動車、燃料電池車)和新技術(自動駕駛)真的能解決車輛的外部成本問題嗎?或者反而帶來新的問題?

上岡直見的首頁讓人想哭,隨著列車班次裁撤、路線停擺,只靠搭車和步行攝影的他也日益艱難。

懷疑人類是否真的有一個田園牧歌的世界可以回去。或者接受車輛帶來的死傷狼藉已是不得不的道路。

科幻需要技術能力,跟國力直接相關。所以近年中國有了這些超英趕美之作,從三體到流浪地球等等。

台灣科幻和國家的關係都語焉不詳。其實也必然要語焉不詳,不然難免讓人出戲。

莫說拯救人類根本輪不到我們,只說台灣把冷凍大腦送上太空、用核彈加速輻射帆,這設定本身就科幻到怪力亂神。

如果調轉思路呢?有沒有「生活科幻」?

2100年的台灣人口掉到1000萬上下,但由於21世紀的徹底反省與技術研究,台灣人已經和摩托車脫鉤,而是乘著國線國造的舒適鐵路穿越平疇綠野,攜家帶眷,踏上1900年胡太明的新綠的山丘。

當然路上不免有反烏托邦或蒸氣龐克式的遺跡,成群的生鏽大建築,但它們都被爬藤攀附,還諸自然。

這樣講起來,頗有新海誠的味道。

欸,說不定此時此刻的台灣就是反烏托邦本身。

2100年可見的地表都是綻裂的柏油車道,招牌腐朽垂掛在瓷磚已經脫完的街道上方。

每條河川都變得五彩斑斕,路邊堆滿汽機車的金屬和塑膠屍體,空氣飄滿薄霧和惡臭,大家都順理成章的斷子絕孫死光光了。🫶

2024年3月20日 星期三

對愛台灣說髒話

(這是《報導者》的報導)



從以前就不喜歡台灣知識分子「重國族議題,輕生活政治」的氛圍,忘了是不是范雲那篇美麗島的歌聲,好像暗示台大校園裡沒人在乎民主、「社會議題」,只剩下學生在爭腳踏車停車位,而這很瑣碎、很遜。

聽到這種論調就滿肚子火。

我認為現在這種針對瑣碎生活議題的轉向,才是一種「回歸現實」。

誰能說一年死三千人不嚴重?一年受傷五十萬人不比台海戰爭恐怖?一年癱瘓一千人,年齡平均數是27歲的年輕男性,這比處決還有效率吧。

然後台灣歷史古往今來的知識分子們一再說:現在年輕人都不關心民主、政治、社會;都忘記了前人的苦難嘍。

真的很難不覺得那些龍應台式的大詞,什麼國家、民主、社會,不是在幫自己的聲望聲量添薪加瓦,喊著喊著自己都相信了咧。

最近走訪大學和參加論壇,一點都沒有覺得年輕人不關心社會啊。相反地,他們比我優秀,比我早早的知道破漏何在,而早早的立定志向、掌握了許多工具,對修理破漏躍躍欲試。

今天有個北大法律所的弟弟經某交通網紅找到我。

網紅徹底把我當成他異男同學那樣叫我全名(明明不熟),說有人找我。弟弟說他想對教授提「交通權」的研究。

那是我這幾個月稍微著墨的內容,日本從1986年左右自法國引入,一路屢戰屢敗到2013年交通政策基本法訂立,正式在國土交通省可以查到相關內容,等於國家承認了30年前一群有志之士打造的論述:「交通權是源於數條日本國憲法所保障人民的複合權利,國家和自治體有義務保障這份權利……」

他還不確定教授是否接受,也可能改作台日交通基本法比較。我說太需要了,你摘要給我吧。交通跟太多知識有關聯,但這五十年來基本上是空白的。當然,工程取向除外,但大多數也是照單全收美式觀點。

我馬上介紹在彰師大認識的成大法律所的弟弟給他。那個弟弟說他有問公法老師,老師不認為中華民國的大法官會樂意用憲法去造新權利。但這個弟弟說那不一定,倡議製造的輿論也很重要;就算憲法不行,也有法律位階的權利。

還有地理系的弟弟抱著電腦硬要跟我解釋京都的街廓是怎麼回事。我跟他說連結不可以放在文章裡,會被奇怪的臉書降觸及。這我們粉專經營者都知道的事但弟弟很驚奇。

總之就是這樣,跟這些台灣青年接觸讓我信心大振。反而是這個暮氣沉沉、瓦釜雷鳴、老人橫行的社會讓我覺得被生出來很衰。不只是老中青8+9可以用「生計」威脅「生命」,逼政府就範;也是知識人製造了一種「關心抽象理念和國族命運才是屌」的意識形態。

兩者加乘,或說更多族繁不及備載的畸形文化多者加乘,共構出「能對天上月亮指點江山,卻對腳邊破敗置若罔聞」的矛盾國度。

住過日本認識一堆中國人,他們都狂熱到近乎盲目的愛台灣,是我一直說:還好吧先沒關係吧。

但嗣後我以他們的視角看,能在雲端上接觸台灣的各種文化作品,而不用以肉身親歷台灣島的具體生活,我當然也能像一團光球一般,等離子地愛台灣。偶爾蜻蜓點水觀光一下,也毋庸覺察這裡的稀奇古怪,反正怎樣都是一股子林瑋嬪的異國情調視角,「これが台湾だ。」這就是台灣啊。

可悲的是我的身體像榮恩衛斯理無法施展消影術般堅實的「生、活」在這裡,恕我沒辦法眼拙,感受不到每天都差點被撞在路上,又一步都很難出門的粗礪。

所以很好,太陽花野百合的價值就是讓我們忘記。從土裡來,回土裡去。年輕人踩在攬鏡自憐的知識人好惋惜的鮮花汁子上面,凝視最腳邊、最卑微、最具體、最瑣碎的事情。

聽著美麗島的人懶得看見的事情。

2024年3月15日 星期五

馬祖是巨型試金石和博弈大拉霸吧


1.

其實有智慧的馬祖長輩都看得出來瑋嬪老師的著作充滿缺陷。

文史工作者L老師不認同她寫馬祖是賭博之島,重點在於軍政府不合理的施政,而不是賭博帶給馬祖人什麼能動性。

老師說這幾年他不太受訪了,這些外來者只想擷取自己需要的元素就驟下結論。

同樣是文史工作者的Y老師說,那本書她讀兩頁就讀不下去,反而是聽到我和逸馨批評該書的節目,覺得很有意思,想把我們節目聽完,也認為應該好好來讀那本書。

功力深湛的長輩,「意義上的馬祖人」們多不贊同。

但長輩們練達周全,不願站出來指責,我完全理解。

可是那些知識界大佬到底在幹嘛?礙於利益格局不評論就算了,瞎捧還頒獎是幾個意思?向「真理」逼近不是他們的專業和職責嗎?連這一點都放棄,憑什麼得到任何人的尊敬?

另,瑋嬪老師能騙到的,就只有自卑、對馬祖一知半解的老人的讚。

廉價的吹捧,甜美的好聽話,當然是留給那些急欲被正教授以國際學術界之高度代言的渴望。

他們內在像一個黑洞,覺得馬祖人在歷史上遭逢太多辛酸,太艱苦、雅秀ㄨㄞˇ(受怪,siù uǎi,難受、痛苦,我外婆常講)

能被看到即是好的。何況是高高在上的大學者。哪怕問道於盲,請鬼拿了藥單。

我覺得好賊,人類學者充分利用了田野的權力落差,取巧地討好地方,也就是那些被留或說被困在地方,瘋瘋癲癲、體無完膚的人。

她以為胡說八道,沒人有能力,或捨不得,反駁她。畢竟她慷慨的讚美了這麼多,堪比鼎盛時代的黃瓜魚呢。

從專欄發表伊始,就有一個老頭一直在他乏人問津的部落格罵我,瑋嬪著作問世時他則大表其讚。

本來我在想不被人注視就是他餘生的棺槨了,回嘴是長照的一環我才懶得無償援助。但現在想想,彎下剩沒幾年可用的腰,虔誠的拜了偽神,著實可憐。

2.

幾年前我還熱衷於塑造「台澎金馬,同島一命」的共同體論述呢。

現在我覺得最無聊的問題就是「馬祖的國族認同」。那是貧乏的本島觀點所能羅織、看起來最有意義的問題了。國共,或說中台大防。

比如之前那部《島國》,充斥懶得走進馬祖的想當然耳。

報導人只有一位空降來馬的台獨青年,我用膝蓋就能想到影片會問多無聊卻故作高深的問題;這麼多島嶼男女老幼沒人能交代一些平衡觀點,是當馬祖人都文盲,還是都死了嗎?

生活在邊緣地帶,貫穿馬祖人一生的約莫是實用主義。我不知道這實用主義是戒嚴意識形態在放射,還是刻意或無意去政治的政治。

但我不能、也毫無興趣代表馬祖人回答:馬祖將往何處去。

比起噁心的,假裝客觀中立,其實是想聽你忠誠表態的「未來」「應然」問題,我想多回答點實然的問題。

南竿場有年輕聽眾說,這聽起來像任何一個邊緣地帶的不平之鳴。

這種籠統也令人氣堵。重點就是交代:作為邊緣地帶,馬祖的邊緣圖景是什麼?換言之,曾經發生過什麼、能怎麼理解?馬祖人的反應又是什麼?

你要弄出一個抽象框架,什麼具體的內涵都不必挖掘,反正萬事萬物只消向上歸類,當然看起來很懂得思考,但究其實只是一種智性的矯揉造作罷了。

台灣的所有研究也都可以扔進名為「之於世界(或中國),一處邊緣地帶的不平之鳴」的焚化爐裡燒燒算了。毋庸去細究此邊緣和彼邊緣的細微差異了。這正是某些知識人最愛的研究方法、大一統理論。

表演愛學術到假戲真做,走火入魔。

如果說整座馬祖教給我最深刻的東西是什麼,那和瑋嬪事件帶來的啟示是相通的:具體。

京大肥宅可以聽一場線上演講就斷言「金馬對國家主義的批判是不感恩惜福」,瑋嬪亦可以帶著她的先入為主自由聯想。

我是何其羨慕他們的懸浮,彷彿整個世界、整座島嶼上真實的生命,都只為他們紙上談兵的逼格服務。

馬祖像代幣一樣,拉霸吃角子老虎給你777。

研究生賺到欽佩,大教授賺到聲望。所有人都賺到自我滿足。

誰嘩啦啦裝個盆滿缽滿後,會在意那一枚小小的、鏽蝕的、髒兮兮的代幣呢?

2024年3月13日 星期三

馬祖宇宙馬祖海:20240308-0312




1.

回到老地方,痛快的講了兩小時,魂都快脫體脫體。

本來打算只講完書的內容,當代馬祖文學就不提,但巨星拗不過聽眾的encore聲,推薦了當代馬祖當仁不讓的三家:謝昭華、劉宏文、陳翠玲三位老師。

很開心的是外婆同村的兩位田澳姐姐,照輩份推算也是「遷台第三代」,但她們是平行時空的對照組——沒有離開土地的馬祖人。

當典清帶著劉金一家離開馬祖,落腳台灣,嵌入低階的生產線勞動大軍時,她們的父祖輩留在白犬島。

-

當年很白癡,有勇無謀一腳踏進深水區,馬上遭受「故鄉」的毒打。

依姐聽了很替我抱不平。雖然已經好幾年了,但我還是感到背後有「同鄉」撐腰、同仇敵愾的感動。

我因馬桶而在馬祖人的首頁炎上一事,至今仍在我曾服務的地方流傳,只是故事已經移花接木變了體。

我:這就是馬祖人傳遞訊息的方式——靠跟事實不符的口耳相傳。😇

-

逸馨說她讀了公孫嬿寫這裡是「鬱鬱蒼蒼的蓬萊仙山」:

「請問如果馬祖真的是蓬萊仙山,公孫嬿來到馬祖的1970年代,為什麼我的父祖輩必須一波一波離開這個蓬萊仙山,去到陌生的台灣充當廉價、底層的勞動力?」

我:海上桃花源啊。是不是到了當代仍然有一堆戴著粉紅濾鏡的外來人士在很遙遠的地方眺望著馬祖、稱頌著馬祖呢?說出來😇

那份毒打如今想來依然只有賤字可言,但最珍貴的或許是替我徹底粉碎「遊子返鄉」的瑰麗濾鏡。

置身具體的人際格局和利益衝突,保證我從此得到了和尊貴的外來者們截然兩判的視野。




2.

《小島說話》這麼冷僻的主題,交織了離島、文學研究,是的甚至不是文學,而是對於文學的研究,這些堪稱who fxcking cares的內容,竟然準備二刷了!

因此趕在金板境天后宮關門以前,其實已經關門了,但我們以張婷婷之姿「就硬把它給踹開啊」,跑進去向媽祖娘娘、威武陳元帥、土地公拜拜謝恩

心想約莫是昨天講了太多馬祖霧神公孫嬿先生的壞話,所以他霧鎖馬祖,讓我有幸經歷壯麗的北竿一小時遊,南北竿兩島極速往返,好不愜意😇

公孫嬿向來以金門時期的「火線抒情」聞名,他在砲火下熾熱奉獻他給國家的淵淵的愛❤️‍🔥

但他在馬祖時期的「說了,但其實什麼都沒說」,我認為更加意義深遠。就像隔著濃霧張望,彷彿看到了,又其實什麼都看不見。

看不見基層官兵無期且無妻的苦痛,看不見推動島嶼居民被迫一波波移出的苦痛⋯⋯

明明寫作應當是揭露,但他反而操作成「遮蔽」,所以我說是戰地政「霧」的文學,遙奉他為馬祖霧神(亂七八糟)

他的政霧國防布有兩招。第一式,讚嘆馬祖的山有多高、海有多深、路有多陡峭。

我:恕我直言,誰不知道?

第二式,讚美島嶼的人情有多溫暖醇厚。

到今天,馬祖書寫仍然如此,不長進者多矣。我跟聽眾說,只要看到作家一直寫山啊海啊霧茫茫啊,可以先推定它看不清馬祖,才一直走火入魔白描景象。

如果有人一味讚嘆人情醇厚、以小搏大、海上桃花源,同樣它也是站在很遙遠,堪稱三連嶼,堪稱龍應台應台姐的位置眺望,根本走不進馬祖。

也可能它看見了,但寧願腆著臉寫一些香噴噴的動聽話來討好人。

前者只是能力有失,後者就難謂德性無虧了。

如果馬祖霧神已然位列仙班,那馬祖賭神不知有沒有機會入祀香火?



3.

夏涼阿姐詳細的筆記。不是老學究,卻是女諧星。看完劉金影片忍不住自己說:「吼唷,可不可愛啦!」

有點遺憾的是,沒趁她還在世,把有她照片的書送給她,讓她可以到處去「齁溝」(好高,hǒ ko,指炫耀)

:「我外孫是作家!」作家兩個字會用國語加重語氣強調。

我跟大家說,如果我不是她孫子,一定會覺得這個阿嬤很古怪,脾氣很大。她會搖搖晃晃走進家旁巷子,突然扯開嗓門:「他們有錢人看不起我們沒錢人!對啊,我們沒有錢啊!」

我:「你到底在跟誰說話啦?!」

可能她跟哪個鄰居阿嬤又一言不合吵架了(應該是台灣籍阿嬤,語言不同也能吵),要跑上街去大聲嘲諷人家。

我很喜歡這些真性情的細節,文學本應該記載下這些。

對文學研究者或廣義的人文研究者而言,累積是當行本色。只有累積夠多,才能在「無字句中讀書」,比如知道公孫嬿霧茫茫的海光山色背後,是島民紛紛棄島逃家,這些不透一字卻震耳欲聾的沉默。

才能看見史料、字句在向你眨眼睛。比如我的自介「生於中壢」,一般人只會停在:喔,生於中壢。

但唯有意義上的馬祖人知道那是何等波瀾壯闊的集體移民,推力是戰地實驗的苛政,拉力是台灣島嵌入國際分工的經濟起飛。

像《風櫃來的人》場景是高雄,馬祖人也迤邐的散落在基隆港到工廠林立的桃園台地之間。

「生於中壢」的有限資訊還可以再往前延伸到「意外的國度」,中華民國自由地區意外地以台澎金馬為界,因此家母與另一個時空的自己擦身而過,不曾嫁往改革開放伊始的福州,乃至北上廣深,反而來到遙遠的台灣島,與家父孽緣深種;

往前延伸到「犧牲的體系」,現代國家至少須將國防、能源兩樣社會成本丟包到外部,日本是福島與沖繩,台灣有蘭嶼和馬祖。

在戰後國家的分工裡,和「匪區」毗鄰的馬祖遂成為了分擔國防任務的前線,而後方台灣得以安全、繁榮,成了馬祖人離鄉背井的標的。

2024年3月9日 星期六

第一次祈夢就夢出嬛嬛



第一次到北竿祈夢。

我跟北竿很不熟,北竿神聖到驚悚,相傳北竿前往台灣工作的青年,會在睡夢中接到神明降旨,於是風塵僕僕回來接受廟方工作。

北竿人的黃金材質神聖天線好像伸得很長,跨越海峽仍能敏感接收神明的訊息。

龍角峰伍位靈公廟的氣場清新,大哥說有人提議放熱鬧的音樂,他說不要,大家來這就是要清淨,好祈夢。

連在台灣這種選擇都好稀罕,我一聽就想肅立鼓掌。縣府早上來放新年歌,縣府人一走,廟方就關掉了。外圓內方,這樣的人不多,我很欣賞。

祈夢不能真正睡著,有人睡到鼾聲如雷,反被叫醒:睡著就看不到(畫面)了喔。

我躺在那裡浮想聯翩,芹壁村迎風面激冷,可是石頭廟宇內薄毯暖和。昨天有讀者驚訝作者我很年輕,我說是不是看書中行文,以為是老頭。

一天回家,看到家裡庭院前方出現一個老頭的背影,頭髮還很騷包染到紅紅的很瞎趴,但不確定是我爸還是隔壁的叔叔,沒有出聲叫他。

走進屋內他剛好從後門進來,喔老頭就是家父。

嬛嬛說:四郎年富力強,不必急於國本。但雍正明明就是一老頭了。

我登時大驚,該不會這就是畫面了吧,跑出去說怎麼辦怎麼辦,她們說怎麼樣怎麼樣你夢到了嗎。

攝影團隊奔相走告:他起來了他起來了,說我效率很好,馬上再把機器就定位。

我說夢到了但卻是後宮甄嬛傳,真的可以嗎。

朋友說可以,我上次請人代夢她夢到小王子,但她根本不知道小王子是我最愛的繪本。

我闡述我的畫面給主委,並刻意略去後宮甄嬛傳,只說「電視劇的皇帝和妃子」,主委據此幫我輕聲細語詢問神明,並開始擲筊時,我很努力壓抑笑意。

畢竟這麼認真面對甄嬛傳會不會太瘋,如何跟神明啟齒四郎和嬛嬛的對白。逸馨說她說不定會夢到琅琊榜。

我:祝你夢到胡歌。

每次彎腰撿筊我都擔心主委的腰大丈夫?主委連續擲了幾次後,向我說:讀書很好。我用馬祖話重複:讀書雅好。但是你會掛心家裡的事,你要好好跟爸爸商量。

我:不可以直接跑掉。

主委:不可以直接跑掉。

我以為是仗著阿爸還算年輕(年富力強),可以趕緊再跑走呢。不過兩者可能也算一回事。

朋友說她夢不到畫面,我:就跟你說要看劇。

這就是我的祈夢初體驗,謝謝嬛嬛。