(來源:沖縄公式ホームページ) |
沖繩好適合當一個交通比較地域。由於沖繩戰的破壞、美軍長期統治和基地遍布全島,沖繩島已經發展成一個有別於日本內地都會區的車輛社會,受苦於壅塞。
日本本土不常見的機車,這裡到處都是。所以也像一個比較有條理的台灣。
誠如我已經咋舌過的,在戰前沖繩有一段時間有比現在還大規模的軌道運輸:從那霸出發,北至嘉手納,東至與那原,南至糸滿,總營運長度將近50公里的輕便鐵路。
比起來,終戰將近六十年(2003)後才開始營運的單軌,只有16公里。
以下內容來自產經新聞的〈永遠的輕便鐵路〉(永遠のケービン),作者除了拜訪遺跡和搭鐵路都在吃吃喝喝,好過分。
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1.
米軍占領下の厳しい状況下で、くず鉄は貴重な資源だったからだ。米軍は道路整備を優先し、軽便鉄道の再建は夢のまた夢だった。沖縄に再び「鉄路」が復活したのは、「ゆいレール」が那覇空港―首里間に開業した平成15年のこと。既に戦後58年が経っていた。
:在美軍佔領的嚴酷條件下,廢鐵是寶貴的資源。美國軍方以車道整備為優先,輕便鐵路的重建只能是夢中之夢。2003年,連接那霸機場至首里之間的單軌鐵路開通,沖繩的「鐵路」復活。此時戰爭結束已經58年了。
2.
しかも同鉄道は、いまだ「廃止」されていないのである。つまり、法的には「生きて」いるのだ。
だから資料館も「与那原駅舎」であって、「旧」がついていない。沖縄戦当時、県知事が戦死するなど、終戦を待たずして県の機能はマヒ状態となった。戦後は米軍に占領されたため、廃止届を出すことすらできなかったからではあるが。
:此外,該鐵道至今仍未被「廢止」。換言之,在法律上,它還是「活的」。
所以資料館的名稱是「與那原車站」,而沒有「舊」字。沖繩戰時,由於縣知事戰死等,縣的功能在終戰前便陷入癱瘓狀態。戰後又因美軍占領,甚至無法正式提交廢止申請,這或許就是其未被正式廢止的原因。
3.
20年前の開業時には「便利な自動車に慣れた島人(しまんちゅ)が乗ってくれるのか」と懐疑的な意見も少なくなかったが、今やさらなる延伸も論議されている。
:20年前通車時,不少人對於「已經習慣便利的汽車的島民是否會搭乘」持懷疑態度。然而,如今已經在討論延伸路線的計畫。
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(米兵向けの飲食店が立ち並ぶセンター通り(現・パークアベニュー)をあるくコザ小学校の生徒たち=コザ市(現沖縄市)、1972年5月。來源:沖縄タイムス) |
第1點旁證了我的猜測:美國人就是很不愛軌道,就是愛公路和汽車。不過在沖繩人燒車聚眾抗議美軍統治的胡差騷動的那個胡差,以前就聚集了專作美國人生意的飲食店和娛樂場所,老照片就顯示,即使他們愛車成癡,但該設的實體人行道還是有設。
第3點尤其發人深省,因為似曾相識。總有人懷疑這裡的人都在騎車開車,大眾運輸有人要搭嗎?人行道有人要走嗎?但人是非常受造於環境的動物,我們不清楚自己要什麼,環境給什麼,我們就會去順應它。
給鐵路我們就搭,給人行道我們就走。把這些都拔掉,我們也能活下來,只是得自力救濟,全部上車去路上碰撞,於是也習慣了這樣的流血漂杵。
戰前輕便鐵路的一部分遺跡,和柴油機關車(車頭)還留在壺川東公園裡展示,可惜保存狀態不佳,機關車上還有塗鴉。
舊那霸站的轉車台甚至就在我下榻的旭橋站附近,可惜當時的我還不知道。
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